『モモ』読後感の続き

 昨日書いた『モモ』の読後感について、エントリーを投稿した後も引き続き考えていた。自分の書いたことではあるのだけれど、なんだかどこか違う、うまく書けていない、という気がして、『モモ』読後感問題が、頭の片隅に居座り続けていた。
 おかしいのは、たぶん、床屋のフージー氏が節約した時間を箇条書きした後の、わたしの感想。
 なぜなら、フージー氏が「倹約」したそれらの時間は、その時間が単純に愉快な時間であったとは言いがたい。「耳の不自由なお母さんに向かって話しかける時間」、その時間を過ごせばフージー氏がすぐに幸福を感じるのかというと、必ずしもそうではないだろう。「体の不自由なお母さんにかわって家事をする時間」だって、何で自分がというやりきれなさや、面倒くささを感じることだってあるだろう。だからこそ、灰色の男たちに、こころの隙を狙われたのだとも言えるのだけれど。
 だから、こう表現した方が適当なのじゃないかと、今は考える。
 「節約」され、半減したか無くされてしまった時間たちは、「こころ」が生きていた時間だったのだ、と。
 そう捉えた方が、語り手のいう

時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。*1

という言葉に、もっと近づけるような気がする。

*1:原文は一体どう書かれているのだろう。「生きるということ」と、「人のいのち」の部分は、同じ言葉が用いられているのだろうか。