“時間の花”

(『モモ』の重要な場面の引用がありますので、未読の方や、その部分を知りたくない方は、画面をスクロールさせるなどして、このエントリーを読まないようにしてください。)
『モモ』という小説が“時間”を題材にしていることは一読すればすぐに明らかなのですが、その“時間”がイメージとしてどのように描かれているか、ミヒャエル・エンデが『モモ』において作りだした時間のイメージはどのようであるか、ということをよく考えてみると、エンデの“時間”イメージがとても深いものであるように思えてきます。
物語の中で、“時間”は“花”として描かれ、盗まれた時間も花の状態で灰色の男たちに保管されます。それは、その物質的イメージのまま“時間の花”と作品内で呼ばれていますが、主人公のモモが“時間の花”を目撃し、時間の花の咲く池“時間のみなもと”で体験した、彼女自身の“時間”は、このようなものなのです。

・・・くらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。(略)つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかりひらいた花が水のおもてにうかびました。
それはモモがいちども見たことのないほど、うつくしい花でした。まるで、光かがやく色そのものでできているようです。このような色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。(略)そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないながらもあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。
(略)おどろいたことに、そのうつくしい花はしおれはじめました。花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととりもどすことのできないものが永久に消えさってゆくのを見るような、悲痛な気もちがしました。
(略)ところが(略)またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。(略)さっきよりももっとあでやかな花が咲きにおいはじめたのです。(略)
こんどの花は、さっきのとはまったくちがう花でした。やはりモモの見たことのないような色をしています(略)けれどもやがてまた(略)花はさかりをすぎて、一枚ずつ花びらを散らし、くろぐろとした池の底しれぬ深みに消えてゆきました。
『モモ』ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波少年文庫、239〜241頁より

このように、花は咲いては散り、咲いては散ってゆきます。そしてその一輪一輪全てが、「それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいとおもえるような花でした」。そして、「どの人間にもそれぞれに」このような“時間の花”の咲く場所があると、モモの出会った人物は言うのです。
『モモ』で語られる、“時間の花”を奪われた大人たちの生活に鑑みれば、どのように過ごすことが“時間の花”を奪われていない状態か、を考えることは容易だと思います。
そして同時に、その“時間の花”が盗まれていない状態が、その時間を生きる人間にとって、決してこの花たちのように一貫して「光かがやく」「うつくしい」ものではないことも、想像できるのです。時には、涙を流すことも、怒りを覚えることも、悲しみにうちひしがれることもあるだろうし、悩んだり、迷ったりする時間も、あるはずだから。
けれども、そんな時間すら、“時間のみなもと”では美しく、「唯一無比の奇跡の花」として咲く。
そこに、ミヒャエル・エンデが『モモ』で描き出した“時間の花”というものの深さや、面白さがあるように思います。