こども語

遊んだ直後は、笑顔を浮かべすぎて頬の筋肉が引きつるように疲れを覚える顔を、普段動かさずに怠けきっているのに突然一日動き回ってだるくなった体にのせて、何かを“使い果たした”ような気すらするのだけれど。
ちょっと休むと不思議なことに心身共に羽が生えたように軽くなる。
こどもと遊ぶことで得られる癒しは、大人と会った後には決して得られない。
わたしの中にあるほころびやもつれを、治して癒してくれる。
こどもと遊び、徹底して遊びつくし、疲れ果てて、
その後、疲れと共に自分の中の何かを捨て去り、軽くなる。
こどもには不思議な力がある。
そういう力を持ったこどもが好きだ。
まだ日本語を上手に話せない小さな子が話すこども語。
こども語を聞き取れるようになったら、こどもの不思議にもっと近づけるだろうに。

魔法をかける方法

最近ずっとミヒャエル・エンデを中心に据えて読書していますが、今日もその話題。
エンデの童話集『魔法の学校』(矢川澄子他訳、岩波書店、1996年)に収められている「魔法の学校」(佐々木田鶴子訳)では、作家の“わたし”が世界のどこかにある“望みの国”を訪れ、“魔法の学校”の授業を参観します。
入学したての生徒たちに、ジルバー先生は、魔法をかけるのに必要なものは“望む力”だと言います。

「魔法をかけようとするものは、自分のなかにある『望む力』をよく知って、つかうことができなければならない。しかし、そのまえに、自分のほんとうの望みを知って、それをじょうずに生かすことをならうんだ。」・・・
「ほんとうは、自分の望みを自分がかくさず、ありのままにありのままに知るだけでもいいんだ。・・・とはいっても、自分のほんとうの望みがいったいなんなのか、みつけだすだけでも、なかなかむずかしいんだがね。」・・・
「だから、さっきから、『ほんとうの』望みといってるんだよ。ほんとうの望みは、自分のほんとうのお話を生きるときにだけみつかるんだ。」・・・
「・・・『もらいたい』というのと、ほんとうに望むこととはちがっている。ほんとうの望みはぜんぜんちがうことがおおいし、まるっきり反対のことだってある。もし、それがべつな人のお話からでた望みなら、けっして自分のお話を生きることはできないだろう。だから、そういう人は、魔法をかけることもできないんだ。」
前掲、22〜24頁

“時間の花”

(『モモ』の重要な場面の引用がありますので、未読の方や、その部分を知りたくない方は、画面をスクロールさせるなどして、このエントリーを読まないようにしてください。)
『モモ』という小説が“時間”を題材にしていることは一読すればすぐに明らかなのですが、その“時間”がイメージとしてどのように描かれているか、ミヒャエル・エンデが『モモ』において作りだした時間のイメージはどのようであるか、ということをよく考えてみると、エンデの“時間”イメージがとても深いものであるように思えてきます。
物語の中で、“時間”は“花”として描かれ、盗まれた時間も花の状態で灰色の男たちに保管されます。それは、その物質的イメージのまま“時間の花”と作品内で呼ばれていますが、主人公のモモが“時間の花”を目撃し、時間の花の咲く池“時間のみなもと”で体験した、彼女自身の“時間”は、このようなものなのです。

・・・くらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。(略)つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかりひらいた花が水のおもてにうかびました。
それはモモがいちども見たことのないほど、うつくしい花でした。まるで、光かがやく色そのものでできているようです。このような色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。(略)そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないながらもあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。
(略)おどろいたことに、そのうつくしい花はしおれはじめました。花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととりもどすことのできないものが永久に消えさってゆくのを見るような、悲痛な気もちがしました。
(略)ところが(略)またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。(略)さっきよりももっとあでやかな花が咲きにおいはじめたのです。(略)
こんどの花は、さっきのとはまったくちがう花でした。やはりモモの見たことのないような色をしています(略)けれどもやがてまた(略)花はさかりをすぎて、一枚ずつ花びらを散らし、くろぐろとした池の底しれぬ深みに消えてゆきました。
『モモ』ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波少年文庫、239〜241頁より

このように、花は咲いては散り、咲いては散ってゆきます。そしてその一輪一輪全てが、「それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいとおもえるような花でした」。そして、「どの人間にもそれぞれに」このような“時間の花”の咲く場所があると、モモの出会った人物は言うのです。
『モモ』で語られる、“時間の花”を奪われた大人たちの生活に鑑みれば、どのように過ごすことが“時間の花”を奪われていない状態か、を考えることは容易だと思います。
そして同時に、その“時間の花”が盗まれていない状態が、その時間を生きる人間にとって、決してこの花たちのように一貫して「光かがやく」「うつくしい」ものではないことも、想像できるのです。時には、涙を流すことも、怒りを覚えることも、悲しみにうちひしがれることもあるだろうし、悩んだり、迷ったりする時間も、あるはずだから。
けれども、そんな時間すら、“時間のみなもと”では美しく、「唯一無比の奇跡の花」として咲く。
そこに、ミヒャエル・エンデが『モモ』で描き出した“時間の花”というものの深さや、面白さがあるように思います。

ミヒャエル・エンデの世界

『モモ』、『はてしない物語』、『ジム・ボタンの機関車大旅行』及び『ジム・ボタンと13人の海賊』と、ミヒャエル・エンデの長編小説を読んできた中で、一貫して感じたことがありました。
彼の小説を読んでいると、まるで、本の世界が眼前に浮かび上がってくるような、本の描く世界に入りこんでしまうような気がする。登場人物たちの動き回る世界がすぐそこに広がっているように、ありありと想像することが出来る。そう感じたのです。
その理由の一つに、情景描写の精緻さがあると思います。こまやかな筆致が、見たこともない美しい世界や、おどろおどろしい町、荒れ狂う海や、切り立った千尋の谷、氷のような寒さや、呼吸も苦しい熱気など、描き出される様々な情景に、まるで著名な画家の筆になる絵画を前にしているような錯覚すら覚えます。
そういった、文章から生み出されるイメージの豊かさのために――たとえ物語の続きがある程度予想できたとしても――、エンデの生み出す世界に身を投じたくなって、最後の最後まで一字一句逃すことなく読んでしまう、ミヒャエル・エンデの文学はそういう特徴も持っているように思いました。
『モモ』の以下の部分は、これが作品の核となるシーンであるということもありますが、そこに広がる幻想的な美しさのために、作品を読み終わってからもずっとこころに残っている情景です。

金色のうすあかりが、モモをつつんでいました。
だんだんと目がなれるにつれて、じぶんが大きなまんまるい丸天井の下に立っているのがわかってきました。大空とおなじくらいあろうかとも思えるほどの大きさです。しかもそれが純金でできているのです。
天井のいちばん高い中心に、まるい穴があいています。そこから光の柱がまっすぐ下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池があり、そのくろぐろとした水は、まるで黒い鏡のようになめらかで、じっと動きません。
水面にすぐちかいところで、なにかあかるい星のようなものが光の柱のなかできらめいています。それは・・・大きな大きな振子でした。・・・
この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近づいてきました。するとそこのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくにつれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかりひらいた花が水のおもてにうかびました。・・・
『モモ』ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波少年文庫 239〜240頁より

おそれにうちかつ

『モモ』、『はてしない物語』を書いたミヒャエル・エンデの、児童文学での処女作『ジム・ボタンの機関車大旅行』では、「おそれにうちかつ」ことが、ひとつのテーマになっていると思います。ある場面で、主人公の少年ジムは、突然現れた「見かけ巨人」に驚き、共に旅をする機関士ルーカスに「逃げよう」と言います。

「おちつけおちつけ!」ルーカスはそういって・・・巨人をじっくり観察しました。・・・「大きいだけで、なかなかきちんとした男じゃないかな。」・・・
「そうだろ、・・・大きいからって、ばけものとはかぎらない。」・・・・・・
「あんなとほうもない大きさだから、きみは信用しないけどね。」ルーカスはいいました。「しかし、それは理由にならない。自分が大きいからって、あいつ自身、それをどうすることもできないんだ。」・・・・・・
「こわがっちゃだめだ。こわいと思うと、事実よりずっとわるく見てしまうものだよ。」
(『ジム・ボタンの機関車大旅行』ミヒャエル・エンデ作、上田真而子訳、岩波書店、176〜180頁)

「こわいと思うと、事実よりずっとわるく見てしまう」、何かを怖れ、恐がってしまう心理の本質をついた言葉であるように思いました。

イチゴ・マジック

 自分が低血圧だということに気付いたのは、大学に入ってからだったような気がします。
 記憶が定かであれば、大学の保健センターに自由に使える血圧計があって、風邪や膀胱炎などで体調を崩しがちだったころ、内科を受診するついでに血圧を測ったりしていました。上が88の下が45、というのが平常値で、正常値や高血圧の範囲と比較しては、これってやっぱり低すぎるんだろうなあ、と思ったものでした。
 そのせいかどうか、朝がとても苦手で、不機嫌になりがちです。
 寝ぼけていて包丁が上手に扱えなかったり、まな板が予想より重くて洗い場に落とし大きな音を立ててしまったり、ドアの建て付けがわるくて新聞を取るのに一苦労したり、ただそれだけのことなのに、朝だというだけで、何だかいらいらしてしまうのです。
 そういう状況を打破しようと、楽しく朝を始られたらと思い、キッチンに、大好きなイチゴを常備するようにしました。
 朝起きて寝ぼけまなこでパクッ。
 寒い空気の中新聞を取ってきてからパクッ。
 朝食の準備をしながらパクッ。
 一粒の真っ赤なイチゴ、その果汁が口の中に広がった瞬間から、“あぁ 幸せ〜”という気持ちがこころの中に広がって、朝の時間が楽しくなってきます。
 これを、ひとり秘かに「イチゴ・マジック」と呼んでいます。
 「イチゴ・マジック」は、朝に絶大な効果を誇るのですが、試してみると午後でも夜でも有効なようで、ちょっと元気がなくなってきたなあと感じた時には、口の中でじゅわっと広がるイチゴの美味しさを楽しんで、元気を取り戻しています。
 これで、もう少しイチゴの値段が低ければいうこと無しなのですが。

来週はホワイトデー

 先ほど、はてなキーワード開発ブログに、キーワード紹介の記事を投稿しました。
 内容はこんな感じで、今回はホワイトデー関連のキーワードをご紹介しております。


 みなさまこんにちは。
 空気も徐々に春めきだし、梅や早咲きの桜が盛りを迎えていますが、いかがお過ごしですか? 先月チョコレートを求めてデパートをめぐっていた頃には、日の入りも早く、太陽の光もこれほど暖かくなかったのに、早いもので、気付けばバレンタインデーからひと月が経とうとしています。そう、もうすぐ、ホワイトデーが・・・やって来るのです! という訳で今回はホワイトデーに関するダイアリーキーワードをお届けいたします。最後までお楽しみ頂けたら幸いです。
 まずは、お題の「ホワイトデー」から参りましょう。

ホワイトデー

バレンタインデーからひと月後の3月14日、男性から女性へお返しをする日、らしい。

ホワイトデーとは - はてなキーワード

 「らしい。」!!・・・そう、そうらしい、そうらしいんです、ホワイトデーってチョコレートをあげたわたしにとっては少しウキウキするもの、けど、・・・・

第29回 もうすぐホワイトデー - はてなキーワード開発ブログ

 記事を書くにあたって、ホワイトデーについて調べたりしていたんですが、ホワイトデーの歴史はバレンタインデーに比べたらとても浅くて、2008年に28年目を迎えたばかりなんですね。そして、ホワイトデー商戦が考案された1978年6月には、かろうじてではありますが、わたしはまだ生まれていませんでした。
 幼い頃、ホワイトデーが近づくと、母に連れられて“お父さんの代わり”に百貨店やスーパーでキャンディを選んだりしていたのですが、その頃はまだホワイトデーの駆け出しの頃だったんですね。小学生の頃や中学生の頃にはすでに定着したような感がありましたが、それでも、「ホワイトデー」が始まって10年か15年ほどしか経っていなかったのです。
 なんだか不思議な気持ちになります。